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匝瑳市の歴史・文化

匝瑳(そうさ)という字は読むのも難しく書くのも難しい字です。もちろん何の意味かも分からない字です。しかし、そこには歴史の貴重な足跡をたどることができるものがあります。難しいからと言って地名を変更し、簡易な表記にする例が日本全国各地にあり、歴史や文化が失われつつあると言っても良いでしょう。そのような流れからは匝瑳の地名は貴重なものではないでしょうか。

1.匝瑳の由来・語源について

 

難しい名前の匝瑳ですが、地名について、匝瑳市のサイトで次のように紹介されています。

匝瑳という地名の由来は、平安時代前期の歴史書「続日本後紀(しょくにほんこうき)」によれば、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東(ばんどう。現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡(さふさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられています。

物部氏は古代伝承上の豪族です。

 

下総国とは、現在の千葉県北部と茨城県の一部を指します。『古語拾遺』によれば、下総国は初め総の国(ふさのくに)と称していましたが、後に上総(かずさ)と下総(しもうさ)とに分れたと言います。『和名抄』では上総を「かみつふさ」、下総を「しもつふさ」と読んでいます。総の国は都に近い方が上総、遠い方が下総と呼ばれました。「ふさ」とは麻のことで、よい麻が生産されるところとされています。

現在の「房総」の名前の由来は、安房国(千葉県館山周辺)の「房」と上総国、下総国の「総」を組み合わせたものです。

 

麻とともに、千葉の地域についてもこの地を開いた者として、四国の阿波国から忌部氏が黒潮に乗って海路ここに移ったものとみられています。黒潮に乗れば四国と千葉は思いの他可能なルートだったと思われます。千葉の安房の名前は阿波から来ているのかもしれません。

 

忌部(いんべ)氏というのは、のちに斎部とも書かれたように、神祇祭祀に携わる部民のことで、それを統率したのが忌部氏でした。当時の奈良を中心とした中央の氏族の齋部とともに、周辺各地にも忌部の流れがおり、品部(ともべ/しなべ=公的な職業集団)を形成していました。各地の忌部には、玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐などがあり、それらの品部の部民も後に忌部氏を名乗ったことが文献に見られていると言います。こうした地方氏族は随所に跡を残しています。その中に、代々、木綿・麻布などを朝廷に貢上していた四国の阿波の忌部氏がいたと思われます。

 

その後一族は、阿波忌部を率いて東国である千葉に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てこれが安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられます。いま、千葉県館山にある安房神社は安房国一宮となっています。

 

匝瑳の語源については、匝瑳市のサイトでは、先述した「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説があるとしています。また、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡であったことに由来するという説もあります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。

難しい字の匝瑳ですが、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで(めぐる)と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで(あざやか、あるいは、みがく)と読み、あざやかで美しいという意味があるとしています。

 

2.匝瑳市の文化財

 

(1) 飯高寺(はんこうじ)

{1} 歴史

飯高寺(飯高檀林)は、匝瑳市の中心部から北方へ約8kmの台地上に造られた日蓮宗の学問所です。敷地は67,667平方メートルを有し、うっそうとした杉林が歴史の重みを感じさせてくれます。

 

天正元年(1573年)、要行院日統が匝瑳市飯塚の光福寺に学室を開いたことが檀林(だんりん)の前身とされています。檀林とは、僧侶の集まりを栴檀の林に例えた、寺院の尊称であるとともに仏教の学問所を意味します。

16世紀に京都から教蔵院日生を招いて、学室を当地の妙福寺に移しました。これが飯高檀林の発祥で、僧侶の教育と宗学を研究し極めることを目的として開設され、翌年には現在の土地に移っています。その後、全国に諸檀林ができはじめ、関東八大檀林、関西六大檀林へと発展します。

 

このように学問所として開かれた飯高檀林も、明治5年の「学制」発布により同7年に廃止となり、294年間の歴史を閉じることになりました。その後、いくつかの建物は、売却や取り壊されたものの廃檀当時のままの状態で保存されています。中でも、講堂・鐘楼・鼓楼・総門は、昭和55年に国の重要文化財に指定されています。

 

{2} 檀林の修学課程―立正大学発祥の地

飯高檀林を今の学校に例えると、「大学」としてみることができますが、初等教育課程から専門研究課程に至る8階級が設置されていました。全課程を終了するまで36年間もの期間を要したといわれます。立正大学は日蓮宗系の大学です。

 

{3} 檀林の地位

数ある諸檀林のうちでもその優位性ははっきりと示され、日蓮宗の中における最高で最大の学問機関として位置付けることができます。

 

(2) 長徳寺仏画

長徳寺は、須賀地区横須賀の古屋敷と呼ばれている畑地にあった常光寺の僧によって建てられた小坊寺の地蔵院が、寺院形態を整えてできた真言宗智山派の寺です。

 

絹本著色の仏画「普賢延命菩薩像」「愛染明王像」の2幅は、昭和50年6月に国の重要文化財に指定されています。「普賢延命菩薩像」は、鎌倉時代後期の作で、大安楽、長寿を祈る主尊です。また、「愛染明王像」は、鎌倉時代から南北朝時代の作とみられ、敬愛息災、滅罪招福の功徳を備えた尊像です。

 

・所在地:須賀地区横須賀/匝瑳市横須賀1294番地

・アクセス:車 JR八日市場駅から南へ約10分

:バス 同駅から市内循環バス(須賀循環)で「横須賀」下車、徒歩約7分

 

(3) ハリストス須賀正教会

須賀ハリストス正教会は明治23年にフィリップ鵜沢神父によって伝道がはじめられところです。ロシア正教の教会(東方正教会)で、ロシア正教の教会では東京お茶の水のニコライ堂や函館の函館ハリストス正教会があります。ロシア正教は日本へは江戸時代末期、函館のロシア領事館づきの司祭として来日したニコライによって伝道されました。

 

須賀教会の聖堂は、明治32年に建てられ、ワシリイ伊藤神父をはじめとする教役者諸師によって続けられてきました。聖堂のなかにある「山下りん」によるイコン(聖像画)は、1974年に千葉県の有形文化財の指定を受けました。山下りんは日本における女流作家の先覚者であり、最初のイコン制作者です。

 

山下りんは、安政4年(1857)笠間市生まれの女性で、7歳の時に父が亡くなり、生活はとても苦しいものでしたが、子供の頃より絵が大好きでした。その後、明治政府が美術学校を創ることになり、明治10年(1878)山下りんは試験に合格し入学しました。工部美術学校のころ、同級生の友人の影響を受けロシア正教に入信し、その教会にはロシアからやってきたニコライ神父がいました。彼はロシア正教を広めるため、大聖堂はじめ、日本各地に教会を建てようとし、教会の聖堂にはキリストや聖人の聖像画が必要でした。ニコライ神父は日本人の中から誰かをロシアに送り、イコン画を学ばせ、日本でイコン画を描ける人材を養成しようと考えていました。そして選ばれたのが山下りんでした。そして、山下りんはロシアでなら西洋の絵画を学ぶことができるという一心で、ロシア留学することにしました。結果としては、慣れない気候と周囲とのあつれきから体調を崩し、5年の留学を2年に切り上げて、帰国しました。

 

山下りんの須賀ハリストス正教会の所蔵作品は、救主ハリストス(全身像)、受胎告知のガウリイル、神使長ミハイル、最後の晩餐、至聖三位一体聖像、至聖生神女(全身像)、受胎告知のマリア、神使長ガウリイル、四福音記者です。

なお、山下りんのイコンは日本全国各地のロシア正教会において所蔵されています。

関東だけでも、足利ハリストス正教会、鹿沼ハリストス正教会、高崎ハリストス正教会、圷ハリストス正教会、須川ハリストス正教会、手賀ハリストス正教会、ロシア正教会駐日ポドウォリエ聖ニコライ教会などの他多数あります。

 

・所在地:須賀地区蕪里/匝瑳市蕪里2742番地

・アクセス:車 JR八日市場駅から南西に約15分

:バス JR八日市場駅から市内循環バス(須賀循環)で「須賀ハリストス正教会前」下車、徒歩3分

 

(4) 福善寺の仏画

福善寺の仏画は、「十二天像」(12幅)、「真言八祖像」(8幅)、「高野四社明神図」(1幅)で県の指定文化財となっています。いずれも絹本著色の仏画で、このうち真言八祖像は空海をはじめ、真言宗の祖8人を描く室町時代後期の作です。また、高野四社明神図は金泥を随所に使用した室町時代の作です。

 

・所在地:中央地区萬町/匝瑳市八日市場イ2326番地

・アクセス:徒歩 JR八日市場駅から北へ約10分

 

3.匝瑳市の伝統工芸

 

(1) 藤箕(ふじみ) 国指定重要無形民俗文化財

箕(み)とは農具の一種で、穀物を入れ、あおって、その中の殻・ごみをふるいわけるもので、藤づる・柳・割り竹などで編んで作ります。匝瑳市で製産される箕は、藤箕です。この箕は、柔らかで使い勝手が良いことから、かつては各家の必需品とされていました。今では、安い工業製品に押され、その需要は減少していますが、生産戸数や生産量は減っているものの根強い人気があります。特に、豊栄地区木積で300年前から伝わる、この箕を製作する技術の木積の藤箕製作技術は、平成21年3月11日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 

(2) 和弓・千葉県唯一の弓師

父も祖父も弓道の家元であった塚本曻さんは、県内唯一の弓師で40余年、この道一筋で頑張っています。弓の製作は、竹の吟味から材料になるまで1年余を擁します。3枚から5枚の竹を重ね、両側にハザノキを張り合わせ、それを芯に内竹と外竹を張り合わせくさびを70本討ちこんで弓の形に仕上げます。1日に一張りしかできない手作り品です。

 

(3) 伝説とむかし話

匝瑳市には、昔から語り継がれてきた伝説や昔話がたくさん残っています。しかし、時代の流れと共に昔話を知る人、語る人が少なくなってしまいました。いろりのそばで、おじいさんおばあさん、両親から子や孫へ、そのまた次の代へと語り継がれてきた文化は、テレビなどの普及に伴い姿を消しつつあります。

 

 

匝瑳市出身者では、亡くなった俳優に地井武男さんがいます。「ちい散歩」のテレビ番組で親しまれていました。本名は同じで、千葉県の八日市場市、現在の匝瑳市出身です。千葉県立匝瑳高等学校卒業後、1963年に俳優座養成所へ第15期生として入所。同期には原田芳雄、林隆三、太地喜和子、赤座美代子、前田吟、夏八木勲、高橋長英、竜崎勝、秋野太作、栗原小巻、小野武彦、村井国夫、三田和代などそうそうたるメンバーがいました。1966年に養成所を卒業後、主にテレビ・映画で活躍。岡本喜八監督『斬る』で映画デビューし、1970年には武田敦監督『沖縄』で映画初主演。以降、主演から脇役、悪役からマイホームパパまで、幅広い役柄を演じ演技派の総合俳優として活躍しました。

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